いのちのことば

「だから、一切の悪意、一切の偽り、偽善、妬み、一切の悪口を捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、理に適った、混じりけのない乳を慕い求めなさい。これによって成長し、救われるようになるためです。あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わったはずです。主のもとに来なさい。主は、人々からは捨てられましたが、神によって選ばれた、尊い、生ける石です。あなたがた自身も生ける石として、霊の家に造り上げられるようにしなさい。聖なる祭司となって、神に喜んで受け入れられる霊のいけにえを、イエス・キリストを通して献げるためです。」(ペトロの手紙一 第2章1〜5節)

「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある顕現を、あなたがたが広く伝えるためです。あなたがたは、「かつては神の民ではなかったが 今は神の民であり 憐れみを受けなかったが 今は憐れみを受けている」のです。」(ペトロの手紙一 第2章9〜10節)

愛する人たち、あなたがたに勧めます。あなたがたはこの世では寄留者であり、滞在者なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。また、異教徒の間で立派に振る舞いなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神を崇めるようになります。」(ペトロの手紙一 第2章11〜12節)

「この方は罪を犯さず その口には偽りがなかった。」

「罵られても、罵り返さず、苦しめられても脅すことをせず、正しく裁かれる方に委ねておられました。そして自ら、私たちの罪を十字架の上で、その身に負ってくださいました。私たちが罪に死に、義に生きるためです。この方の打ち傷によって、あなたがたは癒やされたのです。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり監督者である方のもとへ立ち帰ったのです。」(ペトロの手紙一 第2章22〜25節)

御言葉は私の命です。

神に喜ばれ、人に信頼される者

「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。」(ローマの信徒への手紙第14章1節)

「私たちは誰一人、自分のために生きる人はなく、自分のために死ぬ人もいません。生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」(ローマの信徒への手紙第14章7、8節)

「従って、もう互いに裁き合うのはやめましょう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、きょうだいの前に置かないように決心しなさい。」(ローマの信徒への手紙第14章13節)

「キリストはそのきょうだいのために死んでくださったのです。ですから、あなたがたにとって善いことが、そしりの種にならないようにしなさい。神の国は飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人に信頼されます。だから、平和に役立つことや、互いを築き上げるのに役立つことを追い求めようではありませんか。」(ローマの信徒への手紙第14章15〜19節)

「あなたは自分の持っている信仰を、神の前で持ち続けなさい。自ら良いと認めたことについて、自分を責めない人は幸いです。しかし、疑いながら食べる人は、罪に定められます。信仰に基づいていないからです。信仰に基づいていないことはすべて、罪なのです。(ローマの信徒への手紙第14章22〜23節)

自分の失敗について、主から与えていただいた愉しの御言葉です。感謝して受け止め、聖霊によって与えられる義と平和と喜びによってキリストに仕え、神に喜ばれ、また人に信頼される者とされたいです。

神の知恵を求める

「あなたがたの中で知恵に欠けている人があれば、神に求めなさい。そうすれば、与えられます。神は、とがめもせず惜しみなくすべての人に与えてくださる方です。」(ヤコブの手紙第1章5節)

 ヤコブが言っている「知恵」とは、単なる知識ではなく、困難な状況の中で賢明な判断をする能力のことだ。その知恵が必要なときはいつでも、神に祈り求めることができ、神は惜しげなく必要とするものを与えてくださる。クリスチャンは、何かの拍子に答えに出くわすことを期待しながら暗中模索する必要はない。神の知恵によって、正しい選択をするための導きを祈り求めることができるのだ。

 私たちが必要とする知恵には、3つの特徴がある。

(1)実践的である。神からの知恵は、最もつらいときでも生活に関連し、苦しみや試みからかけ離れた知恵ではない。試みを克服するための手段になるのだ。知識のある人は深い見識を持っているが、知恵のある人は、その深い見識を行動に結びつける。

(2)神から与えられる知恵である。神の知恵は常識を超越する。常識では、苦しみから喜びを見出すようには導かれない。この知恵は、神を敬う心から始まり、神の示す方向へと私たちを導き、善悪を判断する能力をもたらしてくれる。

(3)人をキリストに似た者にする。神に知恵を求めることは、究極的にはキリストに似た者とされることを求めることだ。聖書はキリストを神の知恵と同一視している。

(BIBLE Naviより)

私は知恵の欠けた者です。神さま、どうか私に極限状況の中でも心を神さまに向けさせてください。暗中模索することはないのです。神さまの知恵によって、正しい選択をするための導きを祈り求め、すべての思いを神さまに委ねて、御言葉に耳を傾け、恵みのお取り扱いをいただく者とさせてください。

ヘブライ人への手紙第12章

「あなたがたは、気力を失い、弱り果ててしまわないように、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを、よく考えなさい。」(ヘブライ人への手紙第12章3節)

「「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。

主によって懲らしめられても

弱り果ててはならない。

主は愛する者を鍛え

子として受け入れる者を皆

鞭打たれるからである。」

あなたがたは鍛錬として耐え忍びなさい。神は、あなたがたを子として扱っておられるのです。」(ヘブライ人への手紙第12章5〜7節)

「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後には、それによって鍛え上げられた人々に、平安な義の実を結ばせるのです。」(ヘブライ人への手紙第12章11節)

「だから、萎えた手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。また、自分の足のために、まっすぐな道を造りなさい。不自由な足が道を踏み外すことなく、むしろ癒やされるためです。」(ヘブライ人への手紙第12章12〜13節)

「すべての人と共に平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、誰も主を見ることはできません。神の恵みから漏れる者がないように、また、苦い根が生え出て悩ましたり、それによって多くの人が汚されたりすることのないように、気をつけなさい。」(ヘブライ人への手紙第12章14、15節)

「語っている方を拒むことのないように気をつけなさい。もし、地上で御旨を告げる人を拒んだ者たちが、罰を免れなかったとすれば、天から御旨を告げる方に背を向ける私たちは、なおさらそうではありませんか。」(ヘブライ人への手紙第12章25節)

「このように、私たちは揺るがされない御国を受けているのですから、感謝しましょう。感謝しつつ、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていきましょう。実に、私たちの神は、焼き尽くす火です。」(ヘブライ人への手紙第12章28、29節)

悩みの時に

「子よ、私の言葉を守り 私の戒めをあなたの心に納めよ。

私の戒めを守って生きよ。私の教えを目の瞳のように守れ。」

                  (箴言第7章1、2節)

「子らよ、今、聞け 私の口の言葉に思いを向けよ。

あなたの心を彼女の道へとそらさず 彼女の道に迷い込むな。

彼女は多くの人を傷つけ倒し 殺された者は数知れない。

彼女の家は陰府への道 死の部屋へと下る。」

                (箴言第7章24〜27節)

<礼拝前の祈り>の最後の部分

今日も礼拝を祝福してください。心を開き、すべての思いを委ね、御言葉に耳を傾けます。恵みをもってお取り扱いください。主の御名によってお祈りします。アーメン。

「心を開き、すべての思いを神さまに委ねて、御言葉に耳を傾ける」

苦しい思いも、憤りも、恐れも、そのまま神さまにゆだねて、そして何より大切なのは、「御言葉に耳を傾ける」こと。普段は神さまを信じているし、お祈りもしてる。でも、本当にどうしようもない時に、神さま以外のもの、人やものや何か気を紛らわせるもので、何とかやり過ごそうとしていた。どうか神さま、極限状況の時にこそ、神さまにすべてを任せて、御言葉に耳を傾けることができるようにさせてください。そして、恵みをもって取り扱ってください。

「悩みの時に」(新聖歌279番)

1.悩みの時に 誰にぞ頼らん

 嬉しき時に 誰に告ぐべき

 ああ主よ 主こそ わが救いなれ

 悲しみを去り 慰め給う

2.主のいまさずば この世は空し

 望みは消えて 寄る辺はあらじ

 行く手を示し 導くは主ぞ

 この世に幸を 満たすは主ぞ

3.されども罪に 染みたるわれは

 いかで御側に 近づき得べき

 御赦し乞いて 祈る僕を

 わが主よ御手に 捕らえ給え

4.主の御言葉は さやかに聞こゆ

 「悩める者よ 来たりて憩え

 憂いを除き 安きを与えん」

 招きの御声 胸に響く

信仰によって生きる

「あなたがたは、光に照らされた後、苦しい試練に何度も耐えた初めの頃を、思い出してください。そしられ、苦しめられて、見せ物にされたこともあれば、このような目に遭った人たちの仲間となったこともありました。実際、自分たちがもっと優れた、いつまでも残る財産を持っていると知っているので、捕らえられた人たちと苦しみを共にし、財産が奪われても、喜んで耐え忍んだのです。ですから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には、大きな報いがあります。神の御心を行って約束のものを受けるためには、忍耐が必要なのです。

「もう少しすれば、来るべき方がお出でになる。

遅れられることはない。

私の正しい者は信仰によって生きる。

もしひるむようなことがあれば

その者は私の心に適わない。」

しかし、私たちは、ひるんで滅びる者ではなく、信じて命を得る者なのです。」

               (ヘブライ人への手紙第10章32〜39節)

永遠の大祭司

「しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それで、ご自分を通して神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。この方は常に生きていて、彼らのために執り成しておられるからです。」(ヘブライ人への手紙第7章24、25節)

創世記に出てくるメルキゼデクは、祭司、つまり人の罪を神の前でとりなす職として理想の人物だった。しかし、キリストこそ「永遠」そして「完全」な大祭司であると語っている。人間は罪に対して恐れ、また犯した罪が心を暗くする。それを帳消しにする、真のとりなし手を探していた私たちに、キリストが現れてくださった。主を信じるなら、そのとりなしにより救いがもたらされる。

エスさまを信じます。どうか私の心を平安と喜びで満たしてください。