目に見えないもの
テーブルの上のスペースを空けようと、聖書を開いたまま台に乗せたところ、ちょうどエアコンの風が当たって、ページが一枚、また一枚とめくれていきました。こんな風に。。。
そこで、聖書の中の出エジプト記に出てくるお話を思い出しました。モーセが、神さまに「私が、神の民たちから「あなたを遣わされた神さまの名は何か。」と問われたら、何と言いましょう。」と言って、名を尋ねる場面があります。すると。。。
神はモーセに言われた。「私はいる、という者である。」(出エジプト記第3章14節)
他の訳(口語訳)では、「わたしは、有って有る者。」とあります。
「風」と同じで、目に見えなくても、神さまは「私はいる、という者で有る。」と自己紹介されていらっしゃる。
「風」を見ようとして、いくら目を凝らしても、決して見えません。しかし、めくれるページを見て、確かにそこには「風」が吹いていることがわかります。
では、「神さま」はどうしたら、本当にいらっしゃることがわかるのでしょう。
今日の聖書日課で、「けし粒信仰」というものを教わりました。
「それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る」(ルカによる福音書第13章19節)
<解説>「神の国は何に似ているか。」主イエスは様々なたとえを用いて語られた。ここでは、からし種、けし粒のような無きに等しい信仰でもいいと言われている。立派な信仰でなくとも「からし種」でいいのだ。あとは神がすべての養分を与え、私たちの信仰を育ててくださるからである。信仰とは最初の一歩だけで良い。つまり、神を信じますという「けし粒信仰」さえあれば、驚くべき成長がなされていくのだ。
あぁ、よかった!それなら私にもできるな。背伸びしても届かない!届かない!と、無理してました!立派になろうとして、疲れちゃいました。だから、今日改めて、いろんなしがらみを全部捨てて、「神さまを信じます!よろしくお願いします!」と祈りました!
「あぁ、神さまは目には見えないけれど、いらっしゃるんだなぁ。」と思うだけでも、心がほっとします。新聖歌356番「目には見えねども」を思い出しました。
1 目には見えねども わがそばに在して
常に助け給う 主ぞ懐かしき
(折り返し)
場所(ところ)を備えて われを待ち給う
君に見(まみ)ゆる 日ぞ懐かしき
2 目には見えねども 御顔の光に
常に守り給う 主ぞ懐かしき
3 目には見えねども わが手をば取りて
常に教え給う 主ぞ懐かしき
4 目には見えねども わが行くべき道
常に示し給う 主ぞ懐かしき
「けし粒」のような小さな信仰を持った私を、神さまが育ててくださるのを楽しみにしていきます!めくれるページが風の存在の証になったように、私も神さまの愛を証する存在になれたらいいな。