御言葉によって希望を抱く

<今日の聖書日課

ルカによる福音書第21章33節「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」

♦️この章では世の終わりについて書かれてある。世の中の人も滅亡が来るのではないかとの不安を持っている。その中で、「私の言葉は滅びない」、つまり、御言葉を信じ、聞いていくならば、この世がどうなっても、神さまは責任を持って、私たちを滅びから逃れさせてくださるとの約束だ。信仰とは御言葉である。常に御言葉を慕い求め、御言葉を信じ、御言葉によって希望を抱くものでなければならない。世の終わりは近づいている。御言葉を握って、離してはならない。

 昨夜、インターネットで動画を観ていて、ある動画の中のある方の発言が心に刺さり、自分自身を否定する思いにとらわれてしまいました。もちろん、その方と私は知り合いでもなく、その方は私のことを指して言われたわけではありません。話の中で、マイナス要素のあること、他の人を非難するような、ほんの短い言葉でした。しかし、その言葉がひどく心に刺さり、私自身の存在を否定するような思いになってしまったのです。昨夜はそんな落ち込んだ心のまま眠り、今朝も気分は晴れず、「起きたくない。」とぐずぐずしましたが、何とかいつものように賛美歌を歌い、祈りました。「神さま、どうせ私は、という思いでいっぱいです。今の私に必要な御言葉が語られると信じます。私を生かしてください。」と祈って読んだ聖書日課が上記です。

 私には、2月16日に「この御言葉を信じていこう!」と決心した御言葉がありました。

「心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい。私の父の家には住まいがたくさんある。もしなければ、私はそう言っておいたであろう。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ。」(ヨハネによる福音書第14章1〜2節)

 これから先のことがまだ見えなくても、主イエスさまが言われたこの御言葉を信じていこう。主が私の将来を握っていてくださるのだ。私に最善の計画を用意しておられるのだ。居場所がないように感じることがあるけれど、「私の父の家には住まいがたくさんある。・・あなたがたのために場所を用意しに行くのだ。」と聖書に書いてあるのだから、イエスさまが私のために場所を用意してくださるのだ!信じます!イエスさまから目を離さない者としてください、と祈ってきました。しかし、主から目を離してしまう私の弱さがあり、その途端に溺れかけるのです。主に向かって、湖の上を歩いていたペトロが、主から目を離して嵐を見た途端に溺れかけたのと全く同じです。それでも主は、「助けてください!」と叫ぶ私たちにすぐに手を差し伸べて、引き上げてくださるのです。

 御言葉を握って、離してはならない。常に御言葉を慕い求め、御言葉を信じ、御言葉によって希望を抱くものでなければならない。私は、ヨハネ14章1〜2節の御言葉を心の中で繰り返しながら、神さまに身をゆだねるように黙想しました。途中で眠くなってうつらうつらしながら、心の中の不安が消えていきました。しばらく経って目を開けましたが、心の中に「恐れ」が残っているように感じ、「神さま、まだ心の中に恐れがあります。取り去ってください。」と祈り、聖書を読みました。

エスは言われた。「私だ。恐れることはない。」(ヨハネによる福音書第6章20節)

 これは、イエスさまが湖の上を歩いて弟子たちの舟に近づいて来られるのを見て、弟子たちが恐れた時にイエスさまが言われた御言葉ですが、私に語ってくださった、と受け止めました。この黙想の中で、私は主が、この近くのアパートを示しておられるように感じました。ネットで調べてみると、空室あり、ワンルームのロフト付き、今住んでいるアパートの半分の家賃です。神さまの導きと思い、土屋先生に聞いてみました。と、そのお話はまた!

イスラエルの人々はいつも、雲が幕屋の上から離れて昇ると、旅立ち、雲が昇らないと、昇る日まで旅立たなかった。(出エジプト記第40章36〜37節)