良いいちじくと悪いいちじく
主は私に言われた。「エレミヤよ、何が見えるか。」私は言った。「いちじくです。良いいちじくは上等ですが、悪いほうは傷んでいて食べられません。」(エレミヤ書第24章3節)
新鮮なよく熟れたいちじくは、バビロン捕囚の民を表した。これは彼ら自身が良かったからではなく、彼らの心が神に向けられるからである。悪いいちじくは、ユダにとどまった者とエジプトへと逃げた者を指す。神は、捕虜となっている期間を、捕囚の民を洗練するために用いられた。私たちは、生活がうまく進んでいるときは恵まれていて、苦しむときはのろわれていると考えるかもしれない。しかし苦しみは、それが私たちを強くしてくれるならば恵みであり、繁栄は、それが私たちを神から遠ざけるのであればのろいなのである。問題に直面するときは、神のために強く成長できるよう、神に助けを求めよう。成功しているときは、その成功を神のために用いることができるよう、神に祈ろう。(BIBLEnaviより覚書)
主からの幸いを期待して
「そしてダビデは、アビシャイとすべての家臣たちに言った。「私の身から出たわが子でさえ、私の命を狙っている。ましてこのベニヤミン人なら、なおさらのことではないか。呪わせておきなさい。主が彼に命じているのだから。主が私の苦しみを御覧になり、今日の彼の呪いに代えて幸いを返してくださるかもしれない。」(サムエル記下第16章11、12節)
ダビデは、自分の命を執拗に狙って追いかけてきたサウル王に対しても、「主が油を注がれた方」と主を畏れて、倒すチャンスがあったのに、手を出すことをしなかった。ここでも、シムイという人がダビデと家臣に石を投げながら、呪いの言葉を浴びせかけ、家臣が「私に行かせてください。あの首を切り落としてやります。」と言ったが、ダビデは「主がダビデを呪えとお命じになったから、あの男は呪っているのだ。『どうして、あなたはこんなことをするのか』とは、誰も言えまい。」と家臣を諭した。そして、神からの幸いを期待した。
自分にとって不都合な存在を遠ざけたい、排除したいと思ってしまう。しかし、そこに神の計画があり、私の成長の機会があると受け止めたい。慰めは神に期待して、その先に苦しみが待っているとわかっていても、主に委ね、敢えて苦しい道を選びたい。そこにこそ、主は栄光を表してくださると信じる。
生きるにしても死ぬにしても
「生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」(ローマの信徒への手紙第14章8節)
自分の価値観を押し付けようとするならば、そこにトラブルが発生するのは当たり前の結果です。しかし、それが国家によってもたらされるならば、反抗もできないような状態になってしまうのです。私はその時、どのような決断をすることができるでしょうか。どうぞ、神さまから離すような力を感じた時には、勇気を持ってそれに抵抗することができますように。そして自分の生き方を主イエスに問い、御心に従って行動できるように、またいつでも主の名をあがめることができる生き方をさせてください。
求めるべきもの
「その日が来るー主なる神の仰せ。私は地に飢えを送る。それはパンへの飢えでも水への渇きでもなく 主の言葉を聞くことへの飢え渇きなのだ」(アモス書第8章11節)
みんなが自分の欲望を満足させるためにだけ生きている世界は、なんと悲しいことばかり起こるのでしょうか。まさに今の時代は、聖書が預言した、この世が終わるような悲しみに満ちています。
しかし、この悲しみを、悲しみとして、また飢え渇きを飢え渇きとして自覚する人は幸いです。神さまは「悲しいと思っている人は幸いだ。慰められるからだ。渇いていると自覚している人は幸いだ、それは満たされるからだ」と言われています。神さまがあなたに気づいて欲しいというメッセージです。
どのようなメッセージですか。それは「死んではならない。生きよ」です。そのために「自分の欲望を満たそうとするのではなく、神さまの御言葉を求めなさい」と言われます。そうです。私たちが求めるべきもの、そして宝とすべきものは、私たちの心を潤し続ける神の御言葉なのです。私たちは今こそ求めるべきです。御言葉を開き、御言葉に聞くならば、あなたの心は満たされるだけではなく、満たすために探し歩く必要がない、心に泉が湧き、渇かなくても良いように、あふれ出て、人にも分け与えるほどの幸福を得ることができるのです。
(2021年5月23日週報「めぐみ」より抜粋)
民よ、いかなる時にも神に信頼せよ
今日も、礼拝の恵みをいただくことができて感謝でした。
先週は、「早く何か仕事を見つけないと、お金がない!」と強い焦燥感に駆られ、継続的な仕事が見つかるまでは、単発でも良いからとにかく仕事をしなきゃ!と思い、スマホで検索した単発バイトの会社の登録説明会というものに行ってみました。
すると、時間を間違えて、説明会開始の2時間前に行ってしまい、仕方なく、開始時間まで一旦退室して過ごすことにしました。このコロナ禍、飲食店に入るのはやめておこうと思い、図書館か公民館で・・・と思いましたが、コロナでどこも休館。近くの公園で過ごそうと思いきや、歩き回ってもなかなか公園が見つからない。泣きそうになりながら、1時間ほど町をさまよって、やっと小さな公園を見つけ、腰を下ろして昼食を摂りました。
休息を取り、少し元気になったので、気を取り直して説明会に向かいました。
説明会の話で、「単発」と言えば聞こえはいいですが、つまりは「日雇い」であること、就業日の前日に、登録者に一斉に求人案件が送信され、それに早く「やります」と返信した人から仕事がもらえる「早い者勝ち」であることを伝えられました。それにあぶれたら、その日は仕事ができない、お給料も手にできない。なんて過酷なんだろう、と思っているところへ、最後の登録確認の際、私は緊急連絡先に牧師先生の名前を書いたところ、「緊急連絡先は身内の方にお願いしている。」とのこと。でも、私は単身で、緊急時の連絡先としては牧師先生が一番なんです、とお話ししましたが、「一応お預かりしますが、審査に通らないかもしれない。」とのことでした。その後、その通り審査に落ちたようで、仕事紹介のメールは来ませんでした。
日雇いの厳しい現実に触れて、疲れ切って家にたどり着き、私は聖書の言葉を思い返しました。
「民よ、いかなる時にも神に信頼せよ。」(詩篇第62篇8節)
この聖書の言葉で、私の心は理屈なく、平安を取り戻したのでした。
「主は未熟な者を守ってくださる。私が弱り果てると、救ってくださる。私の魂よ、休息の場に帰れ。主はお前に報いてくださった。」(詩編第116編6〜7節)
私が疲れ果てる時に、心を生かし支えてくださるこの神さまの恵みを、多くの人に伝える力を、神さま、私に与えてください。そして、神さまへの信頼をもって、私がこれから向かうべきところへ向かうことができるように、助け導いてください。
これは主の戦いである!実践編
今日は、昨日覚えた御言葉
「この戦いは主の戦いである。」(サムエル記上17章47節)
という御言葉を信じて、宣言して、主を信頼することの他には何も持たずに事に当たり、神さまは御言葉の通りに、私のために戦ってくださり、私をお救いくださいました。詩編18編の通りに、勝利を与えてくださいました。すべて神さまがなしてくださったことです。高ぶらず、主に栄光を帰し、主に感謝します。
「主よ、わが力よ、私はあなたを慕う。
主はわが岩、わが城、私を救う方
わが神、わが大岩、私はそこに逃れる。
わが盾、わが救いの角、わが砦。」
詩編第18編2〜3節
「主は生きておられる。わが岩をたたえよ。
わが救いの神を崇めよ。」
詩編第18章47節